素直のままの僕

書けなかった文章がある。

僕は誰なのかということ。

 

きっと臆病は昔からのものだ。

食べることは好きで、人が喜ぶことも好き。

おばあちゃんが喜んでくれたのが嬉しくて、たくさん食べた。

誰かが喜んでいる姿は嬉しい。

一生懸命なふりが得意だ。

そのどれも、人の目を気にするからだ。

一時期、僕には人の動きが読める能力があると真剣に思っていた。

人にぶつからずに人混みの中を歩けるとか、じゃんけんに何回も連続で勝てたりとか。

わざと負けたりもできるのが面白くて、好きな女の子にこんな可愛いやり方でちょっかいをかけたりしていた。

 

生きていることや生き物への「?」があった。

帰り道、青い蝶を踏みつぶすために必死になったことがあった。

車に轢かれたバッタから出てきたくるくるした何か(ハリガネムシ)に、みんなが悲鳴を上げて距離を取る中、至近距離で観察していた。

この左の指は動いているけれど、切って落としてしまえばどうなるのか、非常に気になって包丁を手にまな板の前に立ったことがあった。度胸はないのと嫌な予感がしたから、今は五体満足だ。でも本当に不思議だった。

 

感情が溢れ出る瞬間は美しいと思う。

それはきっと僕が苦手なことだからだ。

感情が溢れ出て、誰かが離れていってしまうことが怖いからだ。

「母親」というものに強く惹かれ、依存している。

母性というのは男がずっと追い求めているものなのだろう。

 

不平等は嫌いだ。

上と下が嫌いだ。

今でも少年野球の監督のことは嫌いだ。

態度と声が大きく、子どもに対して手が出せる。

ああいう大人がいるから子どもが素直に育てなくなる。

何かに怯えて生きることになる。

それは彼の発達の障害になる。

どんな地位や名誉を手に入れても、彼が彼自身で向き合って癒やそうとしない限り一生続く足かせになる。

時に向き合っても外せないものになっていることすらある。

 

生きづらさを抱えている。

自覚したのは中学校1年生くらいから。

五体満足。育った環境に何の文句もないであろうに、生きづらい。

それは上下の関係に吐き気がするからだ。

僕の中にも確かにある上下の間隔に吐き気がする。

 

幼稚園のとき、公園に現れた偉そうな年長者が兄をターゲットにいじめを行った。

許せなかった。力があったなら「殺してやろう」とすら思ったかもしれない。

今でも思い出せるほどに、それほど激しく強い感情だった。

 

小学校4年生頃の野球では監督の見ている環境下で行動することが苦しくて、なんでもないのに腹痛が起きた。

腹痛を理由に早退することが何度もあった。

逃げるとラクになった。

ある日、行き違いで監督に怒られたときになんとか保ってきた細い糸が切れた。

怒りが沸き上がってきて僕自身がコントロール不能になった。

あれほど制御が効かなくなったことは後にも先にもない。

人前で感情に任せて叫んだのもあのときだけ。

ものすごい力に突き動かされた。

このときもできるものなら「殺してやろう」というくらい強い感情だった気がする。

子どもができる最大限の抵抗として、憎き持ち主の車を蹴り飛ばした。

その時、ものすごく気持ちが良かったことを、よく覚えている。

 

中学校1年生の時、友だちが教師に舐めた態度をとられたのを見て怒りが沸き上がった。

でもその時は大人になっていたから、感情は外に出ず、自分の中で渦巻いた。

やるせない、行き場の無い大きなエネルギーは僕自身を傷つけた。

生徒が教師から舐められることへの憤りはあるけれど、その感情を説明できる論理は持ち合わせていない。

「何故生きているのだろう」

「上」に対して抵抗する力もない、説明がつくような反論も思いつかない。

生きると言うことの目的のなさ。

上と下の関係がどれだけ成長しても続いていって苦しいのに、生きることに意味はあるのか。

13歳に始まったこの問いへの答えは持ち合わせておらず、ハッキリとした生きづらさが始まった。

人目を気にする上に、すっかり優等生になっていた僕は外に意見や感情を出すことができなくなっていた。

 

ある日、家のリビングで彼に出会った。

「太陽の破片」というタイトルは後から知ることになるわけだが、真っ直ぐな感情と、意志のあるシャウトを見た。

全身全霊で歌う、見たことのない人間がそこにいた。

尾崎豊というアーティストに魅せられた。

片っ端から聞きまくった。

恥ずかしくなるほどまっすぐで分かりやすい言葉と、織り交ぜられた10代には理解できない難解な歌詞のラインに、時には距離を取りながら、引き寄せられ、のめり込むと言うより依存するに近い形ですがった。

誰も答えてくれない僕の「生きる」ということへの問いの答えが、彼の歌声や歌詞の中にあるような気がした。

直感でしか無いけれど、その答え探しは生きることの理由になった。

 

小学校6年の放課後は楽しかった。

中学3年の部活も放課後も楽しかった。

それは僕が「上」を感じずに行動できる環境だったからなのだろう。

中学3年になる頃には大人に反抗する力もある程度持ち合わせていたから、小学校の頃よりもう少し、生きることはラクになっていた。

 

高校1年、高校2年の部活でもつらさを感じたのは「上」を強く意識したからなのだろう。

下手であること、弱いことは学年の上下に足し算されて、自分が「下」なのだと強く感じさせられる。

苦しかった。

その頃には「逃げる」という力が身についていたから、競技や部活そのものから距離をとることができた。

監督とか顧問という存在は僕にとって相変わらず「上」以外の何者でもなかったので、その関係性から距離を取りたいとも思ったのだろう。

やめてしまった後はすっかりラクになった。

勉強については順位の上下は出るけれど、部活動の能力と比べればもっとずっと相対的なもので、自分が力をつけることで変わっていける分かりやすさもあいまってつらさは感じなかった。

「分からない」が「分かる」になる快感は生きる意味を問う人間にとって、答えを知っていく行為という意味で肌に合ったこともあるだろう。

 

大学に入学してからは医学部医学科という環境において強い「上下」を感じずに生きることができて、生きづらさはだいぶなくなった。

一方で周りの「できる」を自分が「できない」ことや、自立という言葉、自由になったために抱え込んだ課題の正解のなさに答えられない無力感や焦燥感に駆り立てられるようになった。

 

その時出会って視界が開けたのもまたアーティストとの出会いだった。

苦しさは自分がつくり出した社会性の中で生まれてきたものであり、自由を探し表現にする彼らの生き方は、周囲にいた大人のそれとは全く違う色を放っていた。

「溢れ出す感情」に近いものが身体に宿っている。

その在り方に強く惹かれた。

「こうなりたい」そう思う様になって「表現」としてのイベントを開いたり、文章を綴ったりして自らを解放する方法を探し続けた。

「表現をしている」という言葉がちょうどよかった。

この事実をこの文章を書くまで忘れていたことに、表現すら社会性を獲得してしまう落とし穴を自覚する。

 

表現として立ち上げた「醸鹿」であり、その社会的意義は、説明だった。

 

留学は目標だった。

その留学がイタリア料理留学になったのは表現だった。

トビタテ!留学JAPANの奨学金をとったのは親へのけじめで、見せつけだった。

 

商品をつくるころには説明と表現が曖昧になり、MAKERS UNIVERSITYという場に入ったのも見せつけだったと思う。

 

こうして自らを「上」にして上下をつくってきた僕は大人になったのだと思うし、医師国家試験を終えて社会の「上」であることに安心感を覚えているのは確かな事実だ。

そう、僕も監督で何も変わらないのだ。

 

この文章で分かったことは、僕の「上下」に対する激しく反発する感情と、「表現」への強い憧れと、あらゆるものに入り込み簡単に獲得してしまう社会性だった。

 

そうして生まれる生きづらさは、「上下」があるところに再生産されることはよく分かるし、全てが上下へと収束されていく流れの中で人間が社会性を獲得し、人が「表現」から離れていくという循環の中に立ち現れる。

 

この流れを断ち切る術を探している。

その術が僕の表現であることが、僕が幸せになり、その結果誰かが幸せになるために踏み外してはいけない条件だ。

そして僕が幸せでいられる場所は上下のない場所であり、それが食事の場であり、ここで表現をすることが僕のエゴとしての「表現」の1つなんだろう。

誰かに納得してもらうためにやるんじゃない。

僕の表現として、こんな世界にしようよって、語りかけることがまず始まりだ。

その声がきれいに通るように道を整理したり耳に入りやすい工夫をすることはあっても、話す言葉が変わることはもう必要がない。

夢を語って、その世界がクリアに人に響けば、響き合ってもっと誰かの声と重なり合って、探している答えが浮かび上がるような気がする。

言葉を持って、僕から出るその素直のままの言葉を僕のシャウトとして、正解も間違いも無く歌い続けることができるかどうか。

ただそれだけが僕が生きるための姿勢であり、その姿勢を身につけたときにきっと新しい地平線が見えてくるのだと思う。

 

何者なのか。

僕の世界に上下は必要ない。

僕の世界の食事の場には、人が表現を忘れること無く発達するためのすべての条件が揃っている。

それは1人で作り出す場所ではなく、みなが協力し合い持ち合うことで完成する。

上下の必要のなさを1人1人が醸しだし、世界の全ての人が食事の場から垣根を融かしていく。

そこに酒がある。

人が理性と言葉だけでは越えられない認知の壁を融かす道具としての良質の酒は、人と人の接着剤であり、地下水脈のように根底から人の暮らしを支えている。

今日は誰かを誰かが癒やし、明日は別の誰かを別の誰かが癒やす。

癒やしが循環する食事の場が世の中で人が集まる度に、再現性を持って生まれ出る。

ゴールは健康であることにはない。人が表現を忘れずにいられる食事の場は、すでに健康であれる場所になっている。

そのための栄養の知識と実践方法の伝達、場所づくりのメソッドをつくること。

これが僕がやること。それが僕の表現であること。

これだけを忘れずに、僕は歌う。僕の表現として、世界が必要だからではなく、それがある世界で人は本質的に幸せになれるから、歌い続けよう。

 

表現を忘れるな。

生きる意味は、表現のその先にある。

誰にも分かられなくてもいい。

分かってくれる誰かに届く様に、あきらめず歌え。

ときに声を大きくしろ。

ときにはボリュームを絞れ。

使う拡声器を変えたっていいし、マイクを置いて語ってもいい。

表現の根底を曲げさえしなければいいんだ。

その根底が曲がらないために、信じられる自分を探すんだ。

今の自分にウソをついたっていい。

語ったものにしかなれないんだから。

自分を信じて歌いあげることだけが、表現を続けるための力を呼び起こすから。

そして愛を持って、表現をしようとする隣の誰かを信じるんだ。

 

感じる心と信じる心が、人が表現を忘れずにいられる場所をつくりだせる。

そこに人の幸せが待っている。

人はそこにたどり着くために生きている。

生きる意味は、そこにたどり着いたときに立ち現れるのだと信じよう。