傷口をえぐられて、障害に目を向ける

社会の中で上手くできない特性はすべて障害か?

また生きづらさに引っ張られ、抱きつかれる夜。

 

誰かと一緒に物事を上手に進められない。人が離れていく。

それは障害か?能力不足か?

 

「ちゃんとする」って言葉は好きじゃない。でもちゃんとしないと他人は不快になったり、僕がつくりたいものが実現できなかったりして(もしかしたらそれすら思い込みなのかもしれなくて)。
他人が気になるところを「ちゃんとできない」のは、「障害抱えてる」ってことか?

 

人間の未熟な部分、熟していかない部分を愛したいと思う。

「未熟であることと、その上に育つ自由を認めていきたい。自分自身のものも、他人のものも認められる世界にしたい」と思う。

そのくせ、他人に気になることがあるとやり返そうとか、自分のペースに持っていこうとか一瞬でも思う自分には嫌気がさす。

 

未熟は矯正しなきゃダメ?生きづらいな。

熟さない環境じゃ、その実は育たない。

大きな実を育てようとしたら、摘果は必要か?何かを捨てて何かを伸ばして。

でもあまりに人為的、アンナチュラルじゃなかろうか。

 

生きていくのに必要とされる能力が多すぎる。

人が生きたいように生きるのに、身につける「べき」ものが多すぎる。

おれ、そんなに全部うまくやれないよ。

 

おれの役目ってなんだろうね。

できることならちゃんとしたいけど、「ちゃんとする」ことにちょっと疲れたのか。

全部を聞こうとしたって、こぼして動けなくなって、前に進めない。

他人のために働くってことの意味が、ちょっと分からなくなってきた。