覚悟と苦しみの間で(新米経営者の覚書)

前に進むべきか、立ち止まるべきか。

生まれ出るリスクを案じて心も体も重くなっていく。

借金は返せるか、建物はずっと残るのか、客は来るのか、定着するのか、思った客層は本当にいるのか、工事費用が天井越えで出たらどうするのか、ぼくのつくる料理は評価されるか、仲間は見つかるか、

 

不安だ。将来に起きることは、不確実性が大きければ大きいほどに、先行きが立たないほどに、まだ起きてもいない内容で不安を増大させていく。

レストラン経営もしていないし、立ち上げも関わったことないし、経営もしたことないし。

やったことないだらけを進もうとしている。

「広げすぎないこと」「引くこと」の大切さを人生の先輩はよく知っている。かけられたアドバイスは頭から離れない。

いけないラインを飛び越えようとしている感覚は、正直ない。大丈夫なはずだけれど、どこかで踏み外すことを懸念している。計算の甘さを指摘されて、自信を持って「大丈夫です」と言い切れない自分の存在を自覚している。

 

今できていなくて、今すぐできないことは仕方ない。

今できていなくて、すぐできることをやろう。

・課題の設定(とりあえず)、その課題解決のために必要な仲間の設計(とりあえず)

・根拠ある計算で今回の借金の返し方を算段する

・起業の「当然あるリスク」(=誰もが起業するなら考慮しなきゃいけないこと)を把握→「起業の科学」「飲食店の始め方と運営」「絶対にやってはいけない〜」を読む。

・無理のない5カ年計画の設計(つまり創業計画書の完成)

 

行動することで、不安はある程度緩和できる。

「寝不足」「飲み過ぎ」「疲労」は精神をマイナスに引く。

ここからは決してないように。自分を整え、行動をするのみ。

傷口をえぐられて、障害に目を向ける

社会の中で上手くできない特性はすべて障害か?

また生きづらさに引っ張られ、抱きつかれる夜。

 

誰かと一緒に物事を上手に進められない。人が離れていく。

それは障害か?能力不足か?

 

「ちゃんとする」って言葉は好きじゃない。でもちゃんとしないと他人は不快になったり、僕がつくりたいものが実現できなかったりして(もしかしたらそれすら思い込みなのかもしれなくて)。
他人が気になるところを「ちゃんとできない」のは、「障害抱えてる」ってことか?

 

人間の未熟な部分、熟していかない部分を愛したいと思う。

「未熟であることと、その上に育つ自由を認めていきたい。自分自身のものも、他人のものも認められる世界にしたい」と思う。

そのくせ、他人に気になることがあるとやり返そうとか、自分のペースに持っていこうとか一瞬でも思う自分には嫌気がさす。

 

未熟は矯正しなきゃダメ?生きづらいな。

熟さない環境じゃ、その実は育たない。

大きな実を育てようとしたら、摘果は必要か?何かを捨てて何かを伸ばして。

でもあまりに人為的、アンナチュラルじゃなかろうか。

 

生きていくのに必要とされる能力が多すぎる。

人が生きたいように生きるのに、身につける「べき」ものが多すぎる。

おれ、そんなに全部うまくやれないよ。

 

おれの役目ってなんだろうね。

できることならちゃんとしたいけど、「ちゃんとする」ことにちょっと疲れたのか。

全部を聞こうとしたって、こぼして動けなくなって、前に進めない。

他人のために働くってことの意味が、ちょっと分からなくなってきた。

 

 

濡れた地面

日曜日の朝

故郷へ仕事に向かう電車内

「7:50の電車に間に合う」簡単なことにさえ汗だくにならないとできない

これが大人ってやつだったか

 

走り去る町中に遠く大きく見えた濡れた地面

水たまりになりそうでならない滲み方に歯痒さを思い出す

学生の頃、休日は毎日野球部の活動で過ぎていった

雨の日の朝は決まってその日の部活動が無くなることに期待した

到着したグラウンドが思ったほど濡れていないと、ガッカリしつつ今日1日の覚悟を決めたものだった

あの頃は部活動しかなかった

学校しかなかった

故郷しかなかった

狭い舞台で一生懸命に生きているなんて知りもしなかった

 

いつからか世の中には他の舞台や逃げ道がたくさんあることを知った

その頃にはもうずるい大人の仲間入りをして、自分のために生きられるようになった

あの頃の窮屈さを忘れて

今にでも窮屈さに押しつぶされてしまうあの頃の僕のような、今日の彼らの存在に思い及ぶことすらない

ただのずるい大人になってしまった

 

命を使うなら、今日の彼らのために使いたい

僕の意思に僕が気がつく

雨の日のグラウンド

 

 

計画性を嫌う

用意周到に練られた通り、他者を出し抜く如く、狙った結果に辿り着く。

打算的で賢しい人の在り方に嫌気がさす。

セッションの美しさが眩しすぎて、できないことを嫌なものに仕立て上げているだけというのに。

「何もできないな」変な夢をみた

昨晩の夢の話。

あんまり医師の仕事について書くことはないのでレアな文章。

 

自分自身が銃弾を受けたらしく、その場に医者が自分しかいない。

自ら腹を開けて中を確認し、大丈夫そう。

ついでに腸も観ておくか、とおもったら腸に腫瘍がある。

さて、開けたはいいが、この腫瘍の取り方がわからない。だってワタシ、外科じゃない。

仕方ない、ここは諦めて一旦腹を閉じよう。

しかし、閉じ方が分からない。だってワタシ、外科じゃない。

 

たくさん手術を観てるけど、いざ自分がやるってなると何も分からないのよね。

結局研修医、何もできないな、と思い知らされる夢をみた。

自らで自らを叩く、自己完結型の無意識よ。。。

欠乏と退屈と 生きる力の後に

一歩前に進むと、足りないことに気がつく。

動けば動くほどに、欠落した能力や感情や、自分ではどうにもできないことに想いが及んでしまうのに、前に進もうとすることはやめられない。

欠落した「まだ」というおもりが、囚人の足かせのようにいくつもまとわりついて、すべて引きずって歩くように足取りは重く、気持ちは今と過去とに、意識は疲労の中に引引きずりこまれていく。

 

足りない、1人だ、寂しい、苦しい、何もできない自分、何もしていない自分…

 

負の感情が溢れる。飲み込まれてもいいのかもしれない。足が止まらないなら。

疲れはいつも生きる力を奪い取っていく。

エネルギーの欠乏と退屈の先にある、休息の時を求めて僕は彷徨っている。

休みたい。その欲望を、今日も叶えてあげる。

エンジン(14)

人にエネルギーの源泉を委ねるな。

人にエネルギーを吸われるがままにするな。

自分のエンジンは自分でつくっていくんだよ。

せいぜい他者との関わりで配管故障を点検する程度だよ。

たまに干渉するけど系は違うものにしておかないと。

 

覚悟もなく人間やってるから、周囲に軋轢をつくるんだ。